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About Florence: you Tourist Guide to Florence
フィレンツェのご案内...
・・・あなたのフィレンツェ観光ガイド
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フィレンツェの歴史

フィレンツェの起源

フィレンツェの歴史を探ると、ローマ時代にフィレンツェの基礎が作られたことは分かっていますが、実は先史時代にまで坂戻ることが出来ます。フィレンツェで一番古い街基盤は、ローマ帝国チェーザレ(カエサル)が植民地として街を築いていたものになります。街の防衛をし易くするために、アルノ川とムニョーネ川に挟んだ形で街が形成されて行きました。
街は、全長1800メートルの城壁に囲まれていました。どこのローマ帝国植民地だった場所に見られるように、居住地域は、狭い通りに直角に曲がった道で升目に建てられていました。2本の主要道路は、街の中心地点、現在のレプッブリカ広場で交差し、街の出入り口である4つの門に繋がっていました。考古学的発見により、旧市街を建築するにあたって、道路舗装、下水道、神殿、公共浴場、コロッセオ、現在のサン・フィレンツェ広場には、イシスの神殿などがあったことが分かっています。当時、アルノ川は、城壁の外側に流れており、船着場は、外部との交流の重要な施設の一つとなっていました。ローマ時代には、河口からフィレンツェより上流のアッフリコ側合流地点まで航行できました。フィレンツェ史の中で一番古い橋は、現在のベッキオ橋よりも少し上流に紀元前一世紀頃に作られたものだったといわれています。フィンレツェの街は急速に発展しました。これは、有利な地理条件と近辺地域との領域争いによって、アレッツォにエトルリア北部の主導権を取って代わった背景にあります。経済力は、新植民地の成長によって力をつけていきました。商業と貿易は、主要ルート、地理的位置と水路のおかげで繁栄しました。ピサから戻った商人たちによって、東方の商人や、イリス神話、2世紀はキリスト教について伝えられもしました。
キリスト教の教えは、その後、ロレンツォ司教、パレスチナ人聖人、フェリチタ教会などのフィレンツェ最古の教会などが生み出されることになりました。サン・ロレンツォは、393年に聖人に列聖された最初の司祭です。 サンタ・フェリチタは、4−5世紀までさかのぼります。しかし、3世紀後半までフィレンツェの司教を待つことになります。最初の記録は、313年のローマの宗教会議にサンタ・フェリチタが参加した記録があります。

ビザンチン帝国とランバルド時代

バーバリ人の侵攻により、フロレンティアは大きな打撃を受けました。405年、町は定住していた遊牧民が治めていましたが、ゴート-ビザンチン戦争の影響を避けることは出来ませんでした。アルノ川を橋頭堡とした戦略とローマとパダナの中間地点、つまりゴート族とビザンチン族の境界であったことから激しい戦いが繰り広げられたことになります541年から544年は、ローマ人によって城壁が新たに再建され、そのほかにも、貯水庫、水路、浴場、劇場と建設されました。城壁は、台形の形とその大きさから、人口減少を証明しています。当時、一千人以下の人口がありました。
6世紀終わり頃、ランゴバルド人は、北・中部イタリアを征服しました。フロレンティアも彼らの支配下となりました。これから、フロレンティアの歴史において最も厳しい時代に突入します。主要幹線網が寸断されましが、その理由として、the main reason for its existence suddenly vanished. 南北地域間のコミュニケーションは、ランゴバルド人は、ボローニャ-ピストイア-フィレンツェ間を破棄します。その理由として、イタリア東部を未だ支配下としていたビザンチン帝国の侵略の危険にさらされることや、ルッカがトスカーナ公領の首都として栄えいたことが理由となります。
いずれにせよ、ランバルド支配下時代、特にテオドリンダ女王がローマ教会に改宗した後、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(Battistero di San Giovanni)を含めた多くの教会施設が建設されました。これらの教会跡が教会の地下部分に見ることもできます。

カロリング時代

8世紀のカロリング時代、封建制度が導入され、フロレンティアは、神聖ローマ帝国の一部となり、町の再建が行われました。9世紀、公共の聖職学校が創設され、アルノ川に橋が建てられました(橋は後に破壊されて、再建されています)。世紀が変わり、城壁も再建されました。おそらくハンガリー帝国の侵略を恐れて作られたものとされています。この3番目の城壁の一部は、ローマ時代の城壁にたどって作られました。また町の南部が繁栄したこともあり、その部分を囲む形で拡張されました。一方で、洗礼堂、サンタ・レパラータ教会、司教館、皇帝が演説や裁判を行った宮殿などがあった北部は除外されました。
10世紀終わり頃、全城壁内地域を所有したウィッラ伯爵夫人(トスカーナ侯爵未亡人)は、夫が"Badia Fiorentina"(=Badiaとは大修道院や大邸宅を表す言葉)と呼ばれていたことから、ベネディクト修道院を夫を記念して寄贈しました。息子のHUGOは、ルッカを去り、フロレンティアの発展に大きく貢献しました。アルノ川沿いの町を彼の居住地点とし、行政面を強化していきました。

初期中世時代

11世紀半ば頃、トスカーナにおけるフロレンティアの位置づけは、ルッカが以前のような重要な地位を所有していなかったことと、教会組織編成の動きなどもあり、重要になっていました。教会事業への一般干渉を排除する闘争と皇帝権力から教皇権の独立の確約は、フィレンツェの騎士の息子でヴァッロンブローザの規律を作ったサン・ジョバンニ・グアルベルトを代表にすることでした。
1055年、フロレンティアは、教皇ビットリオ2世の元、ヘンリIII皇帝と120人の司教を持つ議会を制定していました。サンタ・レパラータ大聖堂、洗礼堂、サン・ロレンツォなどの古い建築物は、11世紀後半に改築されました。1059年11月6日、ニコラスIIの名で教皇となったGerard司教は、八角形の形をした昔からの洗礼堂を改めて神聖し、現在に至ります。洗礼堂内部は、半円形の後陣に3つの扉を持ち、尖ったアーチのドーム(丸屋根)が緑と白の大理石で飾られた8面の外壁を覆っています。
ベアトリーチェ伯爵夫人とその娘の夫が死亡すると、伯爵夫人の娘マチルダは、トスカーナの伯爵夫人になりました。彼女は、常に改革とサン・ジョヴァンニ・グアルベルトの方針に構想を抱いていました。またこの地位に就任する際、改革者達に多大なる影響を与えたヒルデブランド・サヴァナ枢機卿(後の教皇グレゴリーVIIとなります)を支援します。この様に、皇帝ヘンリーIVとは違った体制を表しました。カノッサの事件後、1081年のヘンリーIVの勝利は、伯爵夫人をフロレンティアを除く全トスカーナ地域から罷免しました。この伯爵夫人の罷免によって、町の1082年7月の帝国軍の包囲をもたらしましたが、これを撃破しました。マチルダのフロレンティアに対する愛着と皇帝の構造改革の失敗は、1078年、4番目となる町の城壁を築くことをもたらしました。この城壁は"la cerchia antica(古代城壁)"とダンテに呼ばれました。この新しい城壁は、カロリング時代に築かれた城壁に沿って建築されましたが、今回のは、町の北部も囲まれました。従って、洗礼堂、サンタ・レパラータ教会、伯爵邸も城壁の内側に入ったことになります。この時代に、町が区切られました。区の名前は町の4つの主要門から取られました:サン・ピエロ門-Porta San Piero(東門)、ヴェスコボ門-Porta Vescovo(北門)、サン・パンクラツィオ門-Porta San Pancrazio(西門)、サン・マリア門-Porta San Maria(南門)です。
他の中世時代の都市同様、11世紀のフロレンティアの都市計画は、古い建造物(城壁や旧道路)を手入れするだけでなく、宗教関係の建物も重要なポイントとして、特徴付けられました。

“コムーネ”時代(自由都市体制)

1115年にマチルダ女伯爵が死去すると、フィレンツェの民衆達によって、コミューン(コムーネ:伊語-自由都市)が誕生しました。多くの特権が伯爵から譲られたのと、フロレンティアコミューンが皇帝派への反抗で重要な役割を果たしたことから、自治権と教皇派を弱めるための狙いをつけることに成功しました。1125年にドイツ王ハインリッヒ5世が死去すると、フロレンティアは、最も近い敵フィエーゾレを征服します。結果として、フロレンティアとフィエーゾレは統一ましたが、フィエーゾレには、教区の司教管区が残されました。
コムーネが制定されたという最初の記述は、1138年にさかのぼります。トスカーナにあった各都市が集まった会議で、同盟を構成することが決定されました。当時のコムーネは宗教関係者と世俗代表を制定し、3つの有力な社会グループを設定しました:貴族群、商人群、そして戦力の中心となった騎馬兵隊でした。貴族は、12世紀に多くの権力を保持していたとはいえ、商人達が商業の責任を担っていたこともあり、彼らのおかげで町は発展していきました。商人たちの成長は発展し続けます。他の都市との交易発展のおかげもあり、資産も増えていきました。広範囲に及ぶ交易と信頼できる相手達であったことが、町の経済発展と人口増加をもたらしました。
このまま続いていくかと思われた発展は、フレデリック・バルバロッサ(Frederik Barbarossa)がイタリア方面へ侵入を進めていることを受けて、一時止まります。1185年、皇帝は、周辺領地を没収し、トスカーナ侯を戻しましたが、短命のうちに終わります。1197年、バルバロッサの継承者ヘンリー6世の死を利用して、フロレンティアは再度周辺領地を支配することになりました。
12世紀過程で得たフロレンティアの勢いの明白さは、周辺近郊への拡大を目指すことでした。マチルダの城壁と城門の周りの地域では人口密度が急成長しました。そのため、コムーネは1172年に城壁を広げ、新しい地区を城壁内で作る事に決定しました。新城壁は、1173年から1175年のわずか2年で築かれました。旧城壁の2倍の外周となり、約3倍のエリアを囲んだことになります。小域ながらも、アルノ川対岸の地域”オルトラルノ”も城壁で囲まれたことになりました。 結果として、アルノ川は、町でも重要な拠点となり、近隣都市との交流や工業発展に貢献していきました。12世紀、たくさんの塔が競い合うように建てられます。1180年、35もの塔があったと言う記述ものこっていますが、実際はそれ以上だったと言われています。後に、多くの塔は住居として使われるようになりますが、12世紀、塔はまだ防御の目的で使用されており、”塔社会”という現象が誕生しています。この”塔社会”は、塔の持ち主にある一定の権限を与え、その担当地域の治安維持を担っていました。大小かなりの数の教会もまた増え続けていきました。2世紀の間に、フロレンティアの教会数は3倍にも達し、13世紀初頭には、48もの教会がありました。

13世紀のフィレンツェ

新しい城壁が数年の日数のみで築かれたことは、フィレンツェの権力を象徴することになります。町は、トスカーナ国の首都となります。当時で既に3万以上の住民がこの地域にいたことになります。そして、周辺地域から移民が多く入り、トスカーナの人口は増加していきます。コミューンは、トスカーナ国が経済恩恵で発展し続けている間、平穏な都市生活を送ることが出来ました。1182年、商人達は、職業人と組合を作りっていきました。騎士組合は、さらに地域の枠を越えて、拡大していきます。新しい世紀に入る頃、フィロレンティアは、国際経済の中心地となります。特に、西欧地域の主要との交易が盛んになります。経済発展は、商人と職人の異職種間で組合が急成長したことになります。町は、依然としてギルドの本部として建物を所有していました。1308年に建てられた綿ギルトの本部として使われていた建物は、現在も残っています。
町の拡大と人口増加は、自然な増加現象で起こったわけではなく、周辺地域からの民族流入によってもたらされたものであり、結果として、フロレンティアの経済発展へと繋がっていきました。これらの移民たちは、周辺の田舎の中流クラスの者たちで、経済発展の土台として形成づいてきます。また、彼らの故郷となる周辺領地との交信をしていた町の地区に定住していきます。こうしたことから、人口数が集中し、急速に伸びていったオルトラルノ側に、1128年と1237年に三つ目のの橋がアルノ川に掛けられました。この橋は、石造りで、川の上流側に掛けられ、グラツィエ橋(Ponte alle Grazie)と名づけられました。近郊都市との交易に役立たされ、周辺地域の拡張をもたらしました。その結果、1952年には、もう一つ、橋が作られました。それが、サンタ・トリニタ橋( Ponte Santa Trinita)です。4つの橋は、19世紀のフィレンツェの街に大きく活躍することになりました。
教会新派(フランシスコ会、ドメニコ会、アウグスティヌス会、セルヴィーテ会、カルメル会)は、後期中世都市の構造の中心となっていきます。ドメニコ会は、1221年、フィレンツェに自ら小さな教会サンタ・マリア・デッレ・ヴィーニェ(San ta Maria delle Vigne)を建設します。その後、この原型を元に、1246年と1278年に拡張し、修道院も建設します。フランシスコ会の最初の教会は、聖十字架、サンタ・クローチェを13世紀半ばに建設、1295年には、現在の形に再建されました。同じように、アゴスティヌス会のサント・スピリト教会が1259年、オルトラルノの中心地に彼らによって建造されました。1296年には、拡張されています。既に存在していた古い教会の改築に加えて、修道院、回廊、作業場など、彼らの生活に必要な者を備えていき、宗教家としての生活のほか、政治や文化の面にも大きく影響を与えていきました。
1294年に建築が始まった新しい大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレと共に、13世紀後半に托鉢修道会士によって大きめな教会がいくつか作られ、フィレンツェのゴシック宗教建築の手本となりました。

グエルフィ派(教皇派)とギベッリーニ派(皇帝派)

平穏な時代は、そう長くは続きませんでした。1216年、不協和音がフロレンティアの市民を一世紀掛けて悩ませます。市民は、グエルフィ派とギベッリーニ派へ分裂していきます。1244年、有力なギベッリーニ派の貴族達は、政権の社会的基礎を広げていき、中流商人達の支持を得ていきました。ただしこれは”プリモポポロ(Primo Popolo)と呼ばれる時代の始まりの前兆にしか過ぎませんでした。しかし、1250年、商人と職人達は、ギベッリーニ派貴族達から権力を奪い、新しい政権体制を取り始めました。
貴族達が再び権力を保持しないように、社会主義体制は廃止されました。この一環として、権力の象徴だった塔を29メートルの高さまで切り落とすこととなりました。これでまた、フロレンティアに平和の時代が訪れと、町の繁栄と経済発展を確約したことになります。この経済成長が作り出した賜物として、1252年、フローリンの金貨製造があります。1235年には、既に銀硬貨フローリンがありました。”プリモポポロ”の時代、町の人口は、増加傾向にあり、新しい公共建築も建てられていきました。1255年、コミューン議会から選出された長官の官邸バルジェッロ(Bargello)の建築も始まりました。その多さと、塔の高さを競い合っている町との違いが新しい政治体制を象徴していました。1260年、モンタペリティ(Montaperti)の戦いで、フロレンティアはシエナを破り、中流商人達が政治的に掌握していたシエナの政治体制を消滅させました。その後、ギベッリーナ派が権力を再び持ち始めると、旧体制を復活させ、グエルファ派が町や周辺地域に所有していた中心人物の家や塔、宮殿を破壊すると宣告します。町は、103の宮殿、580の家、85の塔が破壊された瓦礫で埋もれます。6年間、フィレンツェは、ギベッリーニ派の屈辱に服従することを強制されます。ギベッリーナ派は、市民の力に恐れ、クレメン4世教皇を仲介役に入れることを強制的に受け入れさせました。人々は、グエルフィ派の政権回復を喜び、ギベッリーニ派によって破棄された政治制度を再び取り入れました。
その間に、二つの共和国は、お互いに協力していき、新しい形成を整えていきます。”豪富(Magnati)”または企業家(ここではグエルフィ派の貴族やフロレンティアに帰還してきたグエルフィ派達を指します)と、”ポポラーニ”と職業人(商人と工芸職人がギルドを各分野において構成していきました。)1293年、12世紀に始まった歴史的進歩は、次第に収まっていきました。マニャーティ達は、町の政治生命に協力することを禁止します。13世紀終盤、フィレンツェは、経済成長のみならず人口増加においても絶頂期を迎えます。これはまた、都市計画の分野においても同じことが言えます。商業・金融業界においても成長した結果は、町に膨大な蓄財を産み出しました。新たな城壁が作られ、1282年は、城壁の全長が8500メートル、約430ヘクタールを囲み、その前の城壁のおよそ5倍にもなりました。この第6番目の城壁建設には、市から巨額の資金援助を確約されました。そのため、工事のスピードは遅く、しかも戦争などで度々中断し、1333年にようやく完成しました。19世紀に、城壁の大部分が取り壊されましたが、オルトラルノ側に少々の範囲と主要門が現在でも残っており、その姿を見ることができます。
13世紀終わり、フロレンティアは、西側の主要都市として位置づけられました。企業家達は、町の富と権力を象徴する目的で2つの建築物を築くことを決定します。大聖堂とシニョリーア宮殿(Palazzo Signoria)です。アルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio)は、傑作ともいえるこの二つの建築物の設計を行いました。彼は、ギルド商人達によって、新城壁や他の重要建築の設計にも携わっていました。1296年、旧大聖堂サンタ・レパラータの改修工事が始まりました。新しい大聖堂は、パレスティナ聖人に捧げたものでなく、聖母に捧げることを目的とし、建築中幾度も設計変更を受けていきました。しかし、アルノルフォの大胆な設計は、結局基礎のみが実行されました。フランチェスコ会のサンタ・クローチェ教会もアルノルフォ・ディ・カンビオの設計で、13世紀終わりの貴重な建築物の一つです。
塔を使った住居は、富と権力の象徴としていき、元々の防衛、攻撃の目的で使用されることが無くなっていきました。

14世紀からルネッサンス時代に向けて

13世紀終わりから14世紀始めにかけて、”ポポロミヌート(popolo minuto=中-低階層)”と”ポポログロッソ(popolo grosso=上流階級)”の格差が目立つようになってきました。後半の上流階層は、権力を掌握していきますが、14世紀に入ると、中・低階層が何度か、金銀細工、彫金などの技工芸職人が政治の分野への参加が増えるにつれ、民主政治の基盤を広げることに努めました。1378年、プロレタリアによる活動旋風の下、上流階層は、ティントーリ(Tintori)、ファルセッタイ(Farsettai)、ダイヤーズ(Dyers)、コルセッターズ(Corsetters)、チョンピ(Ciompi)の新グエルフィ派のために供給した再構造計画を受け入れざるを得られませんでした。しかし、政府の無能と内部分裂の結果、この新ギルド派は、再び権力をもった中級階層の大商人たちの反応に抵抗することが出来ませんでした。
2つの貴族家の争いは次第に増し、結果として、黒党(Neri)と白党(Bianchi)の2大政治反抗体制をもたらしました。この体制は、簡単に得をする新力の代表者とタカ派のグエルフィ派の旧メンバーと貴族クラスの旧家の代表をまとめたものでした。2党は、13世紀最後の10年間は、交代で権力をもっていましたが、次第に争いが激化していきました。修道院次長は、2党から追放され、状態は急速に陥ることになりました。黒党は、教皇に仲裁を懇願します。黒党に賛成し、白党の代表を捕り、白党支持者達を追放しました。ダンテ・アリギエーリも追放された内のひとりです。
この内政抗争に加え、町では、ピサとルッカが参加した、ミラノのヴィスコンティ家(Visconti)とヴェローナのスカラ家(Scala)のギベッリーナ派勢力に反対する戦いという厄介な負担を抱えていました。. 1315年とその20年とに起こった二回の敗北は、フィレンツェに、アンジェビン家(Angevin)の軍隊を守ること、次にカラーブリア王国のカルロの居住地アンジュー(Anjou)に彼らを置くことを要請しました。1327年に大公が死去すると、意外なことに、フィレンツェは自由都市として復活します。しかし、そこでは終わりませんでした。ピサとルッカを手に入れようとしましたが、惨めにも失敗します。ヴェローナの公主マルティーノ・デッラ・スカーラ(Martino della Scala)の主権の元に、1339年にギベッリーナ派軍隊によって負けたフロレンティアは、再度ロベルト王に助けを求めました。結果として、暴力と権力の乱用によって市民を支配していた専制政治の終結を早めたことになり、市民は自由を取り戻すことが出来ました。
14世紀は、長く続く国内紛争によって、食料不足と伝性病の悪化を進めたことになります。特に、1348年に起こったペスト伝染病は、多くの市民の死亡をもたらしました。さらに災難は続き、1333年には、大洪水の被害により、アルノ川に掛かる橋が、一つを残し、残りは破壊されました。そのため、14世紀は、政治的にも経済的にも非常に困難な時期であり、全西欧の経済の決定的な転機の時期となりました。危機は、町の都市建築にも多大な影響を及ぼし、さらにスローペースで都市建築が行われていきました。13世紀の終わり、主要な建築物の建設工事が終了しました。城壁、大聖堂、シニョリーア広場、修道院など、そして、破損した橋の再建も行われました。橋の再建は、まず1334年と1337年の間に、カッライア橋が、ジョットの設計を元に行われました。他の橋の再建は、ヴェッキオ橋の基礎から作り始められました。ヴェッキオ橋は、タッデオ・ガッディ(Taddeo Gaddi)の設計により、三つのアーチ型の土台に支えられ、橋幅も広げられました。13世紀の急激な進展後、町は、定められた決まりの中での都市計画のおかげで、調和を取れたすばらしい町造りを成功したといえます。14世紀は、道幅の拡張、道筋の変更、老朽化したり、道路整備のために邪魔な建物の取り壊しが行われました。もちろん、コミューンの最初の義務は、シニョリーア広場(Piazza della Signoria)やドォーモ広場(Piazza del Duomo)、主要道路などの町の重要建築物の再建でした。現在でも私達が見ることが出来る様に、建物の下部分は、荒削りな石が積み上げられた外見が特徴です。また、地上階に相対するように規則正しいアーチの一連が上階に作られています。

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ルネッサンス時代

14世紀の終わりに、町の権力が上流階級に渡ると、フィレンツェにも寡頭政治体制が敷かれ、40年以上も少数の中流階級商人が政治を支配しました。しかし、寡頭政治に反対する勢力も巧みに市民を説得し、その力を拡大していきました。権力を持てなかった中流階級の商人達は、市民と一丸となり、さらに多大な力を持っていたジョバンニ・デ・メディチ(Giovanni de' Medici)をリーダーにします。ジョバンニの死後(1429年)、メディチ家に味方する意見が増え続けます。ジョバンニの長子コジモが父を引継ぎ、メディチ家の力をより繁栄させていきます。1464年に死亡しると、コジモには劣る息子ピエロが引き継ぎます。ピエロの死後、息子のロレンツェは、豪華王ロレンツォ(Lorenzo il Magnifico)と呼ばれ、政治にはあまり力を入れず、伝統的な政治体制を保持させます。それでも、彼は、フィレンツェの真なる君主として称え続けられます。
何年も続く商人による寡頭政治で支配されていたフィレンツェは、メディチ家支配の初期時代ということが重なり、ますます外交もさかんになります。ギリシャや古代ローマに新しい精神を見出させ、フィレンツェの町自体では、忘れられていた人文主義の中心地として発展していきます。文学、科学、芸術、人文学において最先端をいき、ヨーロッパの学問、文学において、黄金期を迎えます。例として、フィリッポ・ブルネッレスキがいます。1420年から1446年の間に、彼は、フィレンツェの建築史に於いて、最も重要な建築物も一つを手掛けました。このブルネッレスキと15世紀初頭に活躍した建築家達のおかげにより、”ルネッサンス都市”としての発展を遂げていきます。以後、ドナテッロ(Donatello)、マザッチョ(Masaccio)、フィリッポ・リッピ(Filippo Lippi)、ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio)、サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)、ベアト・アンジェリコ(Beato Angelico)、ミケロッツィ(Michelozzi)、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(Giuliano da Sangallo)、ベネデット・ダ・マイアーノ(Benedetto da Maiano)などの数え切れないほどの芸術家達がこのルネッサンス都市に花を添えていきました。

16世紀のフィレンツェ

豪華王ロレンツォは、共和国体制を翻すことなく、彼の政治能力を上手く使い、フィレンツェとメディチ家の発展に貢献したとして、よく知られています。しかし、1492年に彼が死亡すると、後を引き継いだ彼の子供達は、父親ほど成功することはできませんでした。長子ピエトロ(Pietro)は、メディチ家の権力を破滅させていきます。ピエトロの侵略者カールVIIIに対する卑劣な政策は、最終的には、彼自身をフィレンツェ破門という道へ追いやり、新たに共和国体制を確立させることになりました。しかし、説教者ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)出現によって、市民は メディチ家側と大部分の市民が支持していったサボナローラ側へと分裂していきます。サヴォナローラは、フィレンツェの政治体制を基盤から覆し、”偉大なるお告げ”と証して、虚飾を徹底的に禁止しました。この指導に、フィレンツェの名家のほか、多くの市民が同意をしていったのでした。しかし、これも長くは続かず、再びメディチ家の手に権力がもどることになります。サヴォナローラの狂信的な政策は、異端者と判断され、彼を支持していた市民も次第に、反対勢力に回ることになります。そして、1498年5月23日、教皇アレクサンダーVIによって、シニョリーア広場において火刑に処せられました。ミケランジェロは、フィレンツェの”自由主義”を象徴するために、シニョーリア広場にダビデの像を創作しました。その後、フィレンツェは、教皇の名を受けて、再びメディチ家を取り戻し、アラゴンの王と同盟を組みました。15212年にメディチ家からジョヴァンニ・デ・メディチに続いて、ジュリオも教皇の座に付くと、メディチ家の支配が改めて強められていく気配でした。しかし、1527年にローマの略奪の知らせが入ると、人々は、再びメディチ家をフィレンツェから追放し、市民解放を宣言します。これは、共和国体制側の捨て身の企てでした。 1530年8月12日、皇帝軍と教皇がフィレンツェに入りフィレンツェを11ヶ月間包囲しました。そして、皇帝は、アレキサンダー・デ・メディチを再びフィレンツェに呼び戻しました。この“新しい君主”は、“フィレンツェ共和国大公”と呼ばれるようになりました。専制政治を取り入れ、彼の元で全てをコントロールします。ヨーロッパの重要な王国と同盟を政治的意図で結ぶために、娘をカルロV皇帝と結婚させ、義理の姉妹のカテリーナをフランシスI世の第2子と結婚させました。
メディチ家に対抗していたフィリッポ・ストロッツィは、当時の政権を執っていたアレッサンドロ大公を打倒しようとしましたが、失敗に終わります。1537年には、アレッサンドロ大公は、ロレンツィーノ・ディ・メディチによって暗殺されました。政権打倒を成功させたのは、ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレの息子コジモ・イル・ジョーヴァネでした。メディチ家でもまだ若く、17歳でした。彼は、尊敬を重んじ、徐々に独裁体制を取り入れていきました。彼の生涯の間に、反抗者を押さえ込み、フィレンツェ国家を補強していきました。1555年には、シエナもフィレンツェ統治下にします。1570年3月5日、教皇より君主の称号が与えられ、PiusV世によって、トスカーナ大公の頂点に達しました。1574年に死亡すると、彼は、息子のフランチェスコに政権を残します。1587年まで政権を執り、その後は、彼の兄弟フェルナンドI世(1587-1609)が後を継ぎました。

16世紀の偉大な者達

レオナルド・ダ・ヴィンチは、メディチ家の寵愛を受け、彼らのために多くの作品を製作することになります。1482年までフィレンツェに滞在しましたが、メディチ家の考え方に賛成できず、メディチ家と不協和音が流れたために、ミラノへ移り住みました。1500年にフィレンツェに戻ると、フィレンツェはまだ共和国体制が続いていましたが、1512年にその体制も終わりを告げます。新生プラトン哲学派と回避的なイデオロギーがマキャベッリの厳しい経験主義概念の元、新体制を築いてきました。ミケランジェロとラッファエッロは、当時、フィレンツェに異なった芸術主義を作りだしており、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに居る間に、ミケランジェロは、1504年芸術の都市ローマへ移ります。
クレメンVII世教皇、ジュリオVII世、レオX世の時代は、偉大なパトロンの時代でもありました。ラッファエッロは、ミケランジェロがローマへと旅立った年、ウルビーノからフィレンツェに入ります。4年に渡りフィレンツェに滞在し、その間に絵画技術と構造を実現させる手段として、彼の芸術概念を残すののは十分な期間でした。固定概念と、ミケランジェロの独自性によって、その後、レオナルド・ダ・ヴィンチの洗練を持って、マニエリスムの基盤が出来ていきました。
ミケランジェロは、1516年に、教皇レオX世の依頼により、メディチ家のためのサン・ロレンツォ教会のファサードを設計するためにローマからフィレンツェへ戻りました。結局、この計画は後に、メディチ家のロレンツォとジュリアーノのための石碑とそのための聖具室設計へと変更しました。教会附属のラウレンツィアーナ図書館へと繋がる階段は、まるでゆったりと水が流れる滝のような設計で、手すりと重厚な段で階段を支えられています。これらを見ると、ミケランジェロは、内部の空間に力を入れるバロック様式の先駆けを言っていたともいえます。
1529年のスペインによるフィレンツェ包囲に続き、共和国の崩壊は、アレッサンドロ・デイ・メディチ大公の復活へと続き、ミケランジェロは、再びフィレンツェの残留を余儀なくされます。1534年、ミケランジェロは、ローマのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画の仕事を引き受けました。そうしている間、フィレンツェの町の様相は、道路が整備され、15世紀、16世紀に建てられた建築物は、中庭や庭園が備えられ、面会や表現の場として、空間に重点を置いた広場などの建築が流行りました。画家、建築家、さらには歴史家でもあるジョルジョ・バザーリ(Giorgio Vasari)は、ウフィツィ宮殿を町のホールとして一変させました。彫刻家で建築家のバルトロメオ・アンマンナーティ(Bartolomeo Ammannati)は、ピッティ宮殿を長い切妻様式の外面を持った構造へ変えました。ベルナルド・ブオンタレンティ(Bernardo Buontalenti)は、この時代の多様な文化を取り入れました。彼の多彩でまれに見る才能により、フィレンツェ近郊都市のリボルノでは、大公の宝石のデザインの依頼を受け、さらにベルヴェデーレ要塞の設計を手掛けていきました。

メディチ家の衰退

フェルディナンド1世 (1587-1609年)は、父親のポリシーを受け継ぎ、フランスとスペインの間で均衡を維持していました。衰退の影は、彼の2人の息子達の政権下で見え始め、17世紀にはその影も一気に加速していきました。フィレンツェは、繁栄の道を辿っていましたが、領土が小さく、さらに対抗相手もいなかったために、権力が一極に集中していきました。経済面においても状況が変わっていきます。貿易と生産の衰退は、16世紀終わりまで続きました。銀行業だけが、何とかヨーロッパレベルを維持しましたが、結局衰退の道を進んでいくことになります。
フェルディナンド1世は、病気がちなフェルディナンド2世に権威を引き継ぎます。1628年にフェルディナンド2世は、王座の権威に付き、1670年まで執政を行います。そして、妻マリア・マッダレーナ・オーストリアと彼の母クリスティーナ・ディ・ローレンに権威を委ね、死んでいきました。彼は、メディチ家の歴代の中でも評判が良かったのですが、やはり、フィレンツェの衰退とトスカーナ大公という権威の衰退を阻むことは出来ませんでした。彼の後を継いだフェルディナンド3世(1670-1723)も、メディチ家最後の当主ジャン・ガストーネも衰退の一途を辿っていきました。そして、1737年、ジャン・ガストーネは後継者を無くしてこの世をさります。しかし、文化面に限ってはは、音楽や美術学校の影響もあり、それらの作品が町に華を添えていました。16世紀から17世紀に掛けては、文学分野の研究が発展します。クルスカアカデミーでは、1582年から続けていた辞典の集大成を1612年に発行します。科学の重要性は、1657年にレオポルド・ディ・メディチによって創設されたクリメントアカデミーが重要な活動拠点となり、アカデミーは、彼の兄弟のフェルディナンド2世によって維持されました。兄弟は、ガリレオの弟子でもありました。

ロレーヌ家時代

最後のメディチ家君主ジャン・ガストーネ大公の死後、当時ヨーロッパの中でも重要だったウィーンは、トスカーナをロレーヌ家のフランシス1世大公に渡dsします。その後、ピーター・レオポルド1世、フェルディナンド2世、フェルディナンド3世、そしてレオポルド2世へと継承さていきました。ロレーヌ家の到来は、フィレンツェの経済を復活させる原動力にもなりました。また、フィレンツェを海外に文化を広めることから除外し、一地方の精神として進めていったため、長い間、文化的な変化はフィレンツェの中で進んでいきます。こうした中、アンマンナーティとブオンタレンティの技術は、建築分野に多大な影響を与え、ピエルフランチェスコ・シルヴァーニやフォッジーニ、18世紀のルッジエーリなどの手掛けたものからも判断できます。18世紀後半、国際文化について議論が交される中、ロレーヌ家は、フランス人ジャドットへフィレンツェ訪問を尋ね、ネオ・クラシック様式を取り入れようとします。その結果、ネオ・クラシック様式は、フィレンツェでも取り入れられ、ボーボリ公園内のメリディアンパレス、ピッティ宮殿の白い部屋、などに観ることが出来ます。
その内、経済も好転してきます。それを象徴するかのように、通りが整備され、あたらいい橋も2つ作られました。さらに、アルノ川沿いの道も城壁に沿って大幅に拡張されました。 ロレーヌ家のレオポルドIIは、社会危機と階級社会への反対運動が今にも勃発しそうな雰囲気の中、オーストリア軍の援助を受けて、町のコントロールを進めます。これにより、ネオクラシックは、啓発的理論と自然への帰化、製造の自由へと移り変わります。城壁周辺の新住民人口と貧しい地区に住んでいた人口との差が拡大していったことが、フィレンツェの社会革命への発端となりました。この間、工業経済の誕生により、労働者階級の労働条件の問題も強調されている時代でもありました。

首都としてのフィレンツェ

1859年、ロレーヌ家は、フィレンツェを永久に離れます。第2次独立戦争に続いて、トスカーナもイタリアを統一したサヴォイア王家の中に入ります。そして、1865年から1870年の5年間、イタリアの首都となりました。そのため、大規模な都市計画が行われました。現在のレプッブリカ広場近くあったユダヤ人地区や旧市場が取り壊されたり、城壁外地の整備などが行われました。レプッブリカ広場は、それまでの成層を重ねてきたものを取り壊し、個性の無い幾何学的レイアウトの建築物で立て替えたため、周辺にある古い建物とは協調性がなくなっています。

1900年代のフィレンツェ

この世紀を通して、フィレンツェは、新しい局面にぶつかります。変化し、フィレツェへも浸透していったモダン社会と複雑に絡み合った社会問題は、旧概念ではとても対処しきれなくなりました。つまり、旧性質から、本質的に均衡が取れた新しい時代への状況変化へ再生することが必要でした。
ジュゼッペ・ポッジ(Giuseppe Poggi)のフィレンツェ都市計画は、フィレンツェが首都だった時に大規模に行われました。城壁を壊し、環状大通りを作り、ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)、それに続く大通り(Viale dei Colli)、環状線に沿って、インディペンデンツァ広場(Piazza Indipendenza)、アゼリオ広場周辺(Piazza Aseglio)、サボナローラ(Savonarola)、サン・ヤコピーノ(San Jacopino)、ピアジェンティーナ(Piagentina)の周辺には新しい住宅が建てられ、旧市場があった所には、ヴィットリオ・エマヌエーレII世広場(現在レプッブリカ広場)が作られ、広場周辺にはオフィス向けの建物が建築されました。20世紀最初の10年は、ポッジによる都市計画が進み、町周辺の小丘ふもとまで一気に拡大していきました。西は、ヴィットリオ・エマヌエーレII通りまで、東はヴォルタ大通り、アルノ川対岸地域では、ピザーナ通りまでになりました。
第一次世界大戦までは、フィレンツェでは、一般市民の力による明確な反動の動きはありませんでしたが、社会レベルでは、労働者達が、重労働による生活への影響に心配し行動を起こし始めていました。
1890年から1915年の間、人口は1万5千人、増加しました。1905年と1913年の間では、36,652室分のアパートが増築され、約2000の低家賃アパートが建築されました。2階部分に造られている中級階層のテラスは、“トレニーニ(電車)”と呼ばれており、リコルボリ(Ricorboli)からサン・ジェルバジオ(San Gervasio)に周辺によく見られ、ムニョーネ川流域(Mugnone)からサン・ヤコピーノ(San Jacopino)、リフレディ(Rifredi)周辺は、現代ヨーロッパ調の町並みが見られ、900年代調の建物が多く見られます。
新中流階層の住居地区は、クーレ(Cure)と呼ばれる地区で、アルド・パラッツェスキはこう述べています:農地だったこの地域に、次々と簡素で質素、それでいて大型のマンションが続々と建てられている。この風景や雰囲気は、フィレンツェの街の中心部とはまた違った光、空気をかもし出している。

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